ときに悩みは内に溜めてみる
たとえば、私にはよくある、こんなこと。
悩んでる誰かが持ち込んできた悩みに対して、
その人を変えようと…
いや、人を変えるなんてのはおこがましいから、その人にアドバイスしようと
思い切って自分の体験を交えて、「こーやったら未来がちょっと良くなるかもね?」なんて思う一意見を言ってみても、
結局、相手が他所で言えなかった自分の言い分を私の前でぶちまけてスッキリしただけで、相手自体が変わる事は無い。
「話を聞いてくれてありがとう」
「スッキリしたわ〜」
と言われて、終わり。
「うん、それやってみる!」なんて一言は、聞いてくれた人への社交辞令。
分かって居る。(ほんとにやる人もいるけど)
でもそれが"社交辞令"と分かった時や、自分の熱弁をサッとかわされた時の、
無力感というか、失望感と言うか…はがゆさ。虚しさ。
耐え難い…
悩んでいる本人は、ほんとは解決策なんて求めてない。グチを聞くだけ、話をきくだけでいい。
だけどそれを分からずにいたころ、
アドバイスするとか、
話を聞くと決めてかかったのは私が決めてやったことだから、恥ずかしかった。
自分の経験を踏まえて話したもんだから、とても恥ずかしい。
こんなふうに、自分の「悩みを話すこと」で、虚無感を相手に感じさせる可能性があるぐらいなら、
悩みの行為自体を、自分の中で有効利用したい。それにはどうしたらいいだろうと考えてみた。
悩みは自分の中でもんもんもんもんもん……、と持って居る方が、
自分の器の成長につながるんじゃないか?と。
ここで思う成長って、
- 自分が"悩んでいる今の状況"に支配されないこと
- 悩んでいる状態に振り回されず、冷静で居られる時間が長くなること
- また興奮状態から落ち着くまでの時間が短くなること
- "考える"という行為に、耐える力がつくこと
- もしくは、"これ以上考えない"、と問題を突っぱねる力と勇気もつく
- 日常にあふれる事象から、可能性の選択肢を見抜く力がつくこと
などなど。
「悩む自分に耐える力がつく。」
私これすごく大事なことだと思う。
それは、思わず言ってしまう(やってしまう)" ウッカリ "が、ゼロに近づくってこと。
ウッカリ言ったことって、後で思い返せば恥ずかしい事が多い…。(酔っ払ってた時の言動ほど、あとで見返して恥ずかしくなるものはない…。)
私の経験を振り返ると、
誰かに悩みを話すことは、
解決法を教えてほしいんではなく、
私がどれほど頑張って来たかをひけらかしたかった、頑張りを第三者に認めてもらいたかった時が多かったよな
、と思った。
最初は悩みの内容を話していると思ってても、
最後の最後のほうは、気づけばグチになっている。
そう、気づけばグチになってる。感情的な会話になってる。(これは他の人が悩みを話してくれたときも、だいたいそう。)
そんな自分に気付いても、その時にはもう遅い。既に、悩み自体を解決するという意味を、成さない会話になっている。
『あぁこんなグチを言いたいんじゃない。
悩んでる内容を聞いてほしいの…
ほらほら、聞いてくれてる人がどんどんつまらなさそうになってる…
しかもなんか一緒になって怒ってるし、言い方も心なしかキツくなってない…?この人には、関係無いのに巻き込んでる…
あっ、まちがえて気持ちと裏腹な事言っちゃった…
あぁ…これでまた支離滅裂。自分の方向が分からなくなっていく…』
という負のループにはまって、その日から数日はポジティブな自分が表に出て来れなくなる。
ここからの状況って、すごく苦しい。
悩むこと自体も確かにとても苦しいけど、
1年、1ヶ月、1週間経てば、もしくは環境を変えればいつのまにかその時の悩みは忘れてしまえる。だから悩むこと自体は問題ない。
『誰に言われたわけでもないけど、日々良い方向に必ず進んでいると信じること。』
これを信じるには、悩みという行為に自分が負けない力が必要になる。耐える力が。
その力をつけるには、悩みのエネルギーをむやみに外にださずに自分の中にとどめておくこともひとつの手だと思う。
悩みの中に身を置き続けること。
莫大なエネルギーの渦中に身を置くことなんだけど、それをも自分に取り込んだら、一気に器のデカイ人になれる気がする。
悩みを誰かに話すことは、もったいないと思う。
悩むということは、自分の中にエネルギーが、温泉を掘り当てた時のように湧き出ているってことだと思う。そのエネルギーを無駄にしてはいけない。
そのエネルギーを自分の為に使い、それが他人の為に繋がるように働かないといけない。
悩めることはラッキーなこととは言わないけれど、悩みの内容はネガティブでも、悩んでる行為自体は悪くないこと。
私はそう思う。
(ただ、耐えすぎて潰れる前のガス抜きは、必ずするべき。)
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話は飛躍するけど、本題。
私、SNSでの投稿数が多いほど、自分の内に感情を溜め込めておけない、「我慢弱い人」なのだと思う。上記の事が出来ない、あるいは苦手な人。
感情とは、良いものも悪いものも含めて。
(良く「見たくない」と言われる投稿といえば)
オシャレで有名なカフェ来ましたの料理写真
大勢でワイワイとたのしげなパーティの様子
飲み会のあとのラーメン
生まれたての我が子と、その成長ごとの写真
感じた"高貴"な事、名言
いずれも、読み手には「関係無い」ことばかり。
人生において、他人のどうこうナニナニを見たり聞いた所で、何の影響もない(これは、メリットが無い、と言われるよりも冷たい表現だと思う。)
関係「有る」のは、発信側だけ。
日常会話で、自分に関係無いことをダラダラと連ねられる事に、一度でも苛立ちを覚えたことのある人は、SNSを長く続けることは難しいんじゃないかと思う。
それを体験したことのない人は、いつまでも意味ありげな投稿を続け、反応がもらえるSNSにいつのまにか依存する。
SNSで発信したい、
誰かに何かを言いたいという気持ちを抑えて、
自分の内にエネルギーを溜め込んで、自分の欲望に耐える力をつけるってことも、やってみる価値はあるんじゃないか、と思う。