哀愁部活動報告(3/4)「ひとりさみしい」で検索してみた
今の世の中、なんでも過剰に煽っている気がする。
煽られている気がする。
(世の中なんて大袈裟。
私が世の中を語るなんてくすぐったいけど。)
作り物の世界。
のっぺらぼう。感覚的に平らなモノで溢れる世界。
デコボコもない、スラッとした世界。
無駄が一切省かれた世界。
そんな世界が、本当に実現されそうだ。
安全に安全に、危害など起きないよう、念入りに念入りに念を重ねて、
「それ」が起きてしまわないように予防線を張る。
「それ」とは、もう、あらゆること。
私はそんな世界は、怖いと思う。
「ひとり、さみしい」…?
今日、Googleで「ひとりさみしい」というワードで検索をしてみた。
たくさんのサイトがヒットした。
ひとりの時の気持ちの紛らわし方、
ひとりの時にも沁みる名言格言をのせたサイト、
ひとりはさみしいよね、ここでみんなで集まってさみしさを紛らわそうよ、と慰め合うサイト…等。
孤独とは何かを悟るサイトもあったけど、
ひとりは寂しい、さみしいことを紛らわそうとする「方法」を書いたサイトが多かった。
そもそもなぜみな「ひとりはさみしい」のかな?
「さみしい」ことは、気を紛らわさなければならないことなのかな。
多くの人は、
ひとりはさみしい、
「さみしさ」はまぎらわすものだという考えにたどり着くよう、無意識のうちに何者かに過剰に煽られているのではないか?と思ってしまう。
「ひとりはさみしいもの」
それなら
「さみしさはまぎらわすもの」だと、誰かに思わされているだけではないのかな。
誰かとは、私に影響を与えるあらゆるもの。
自分の身の回りに溢れる情報やモノから知らず知らずに影響を受けて、
「孤独はさみしいもの」「ひとりは悲しいもの」と思わせるよう、
考えや価値観をいつのまにか植え付けられてしまっているんじゃないのかな
なんだか、私がこういう事を考えるのも誰かに操られている気もしているけれど。
私の選択は、そもそも私が選択しているのかな?
なんていう、矛盾したことまで疑ってしまう。
矛盾してるけど、
時々そう思ってしまうことがあるのは事実だもんな。
時々誰かが僕の人生を操ってるような気がする
この歌詞の通りだ。
同じ事を考えている人はいるんだ。
いや、もしかしたら、みんなとっくに気付いているのかもしれない。