言葉が溢れすぎている、今の世の中。
...タイトルに「世の中」とつけてみたものの、私は世の中の事は良くわかりません。
知ったかぶりのような態度になってしまうのが嫌なので、最初に、敢えて自分でツッコんでおきます。
夫は毎日、あるアプリからニュースを受け取るように設定しています。
今朝、携帯がちょうど受け取った瞬間を見てしまい、そのニュースのタイトルがパッと目についてしまいました。
『○○でテロ、200名以上死亡。』
ああ、一日の始まりの早々から嫌なもんみちゃったな、と思いました。
その時には夫には何も言いませんでしたけど、後々夫も見たはずです。
あのフレーズを見て、夫はどう感じたのかは知りませんが、少なくとも私は不快でした。
ニュースの内容は決して吉報ニュースではないけれど、この不快感には関係はないと思います。
今の私達には、そんな情報を知る術が身の回りにたくさんあります。
テレビや新聞、携帯、街頭の電光掲示板、最近ではもう電車の中にも始終流れ続ける掲示板があります。
どこにいっても、最新のニュースを知りたい知りたくない関わらず知る事が出来ますよね。
そここそが、不快なのかもしれません。
「目から入ってくる情報が、頭で処理出来る以上にとても多い。」
「どこに行っても、言葉や文章が溢れている」ということなのかも。
私にとって、自分に関わりのある情報無い情報関わらず、ホントに多くの情報が溢れているこの毎日、自分に向かって入ってくる文書・単語・ニュース・事実・噂がとても多くて、頭の中で整理や振り分けが出来ていないと、とても感じます。
振り分けとは、
自分に関係のある話し・無い話
自分に重要な話・じゃない話
を分ける事。
目に入ってきた全ての情報を、それでわける必要があるのかと言われれば、そうじゃないかもしれないです。でも、振り分けられずに中途半端になってる情報が多すぎる。
膨大な情報の中から、自分に大事な話を、きちんとキャッチするためのスキルは磨く必要があるとはスゴくスゴく思います。それは間違いないです。
でも、それでもやっぱり情報が多すぎて、意図的に惑わされていることがあるんじゃ無いかと思うことも否めない。
根拠もないし突飛な話ですが、こんな世の中や生活が続いていき、
この情報は自分に必要・不必要と振り分ける能力が知らず知らずのうちに高まっていくと同時に、そのうち、
自分の目の前にいる人の事も、自分に必要・不要という観点で見てしまうんじゃないか、と思い、私は怖いです。
情報が溢れすぎる社会の将来が、とても怖い。
それでも、こうやって手軽なインターネットの恩恵を受けて、こんなブログを書いて自分の意見を述べている私は、とても矛盾した存在だと思う。